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人間機械 Volume 0 『穏やかな暮らし』感想

感想を纏めるのがはちゃめちゃに遅くなってしまいました。
台本を買ってよかった、と心から思います。こうして時間が経っても、じっくり振り返ることができました。

主催のハリガヤ氏は大学の同期。もしつまらんかったら「つまらん」と正直に言おう、そういう心づもりで観に行きました。
その上で心から贈りたい言葉は「すごくよかった!!」

まず三葉氏の黒猫ちゃんがチョーゼツカワイイ。かわいいだけじゃなく、猫の演技がとても上手でした。足首をくるくる回しているところ、毛玉にじゃれつく仕草、ドキッとするくらい「猫」でした。前世、猫だったのでは?褒めの語彙が貧困で申し訳ない。
それから三葉氏は何より「目」の演技がイイ。大きいから、映えるのでしょうね。くるくる笑ってたのに突然すうっと半眼になるのがトテツモナク「猫」だった。動物的でした。

舞台は簡素です。簡素な中にソファとカーペット、クマコの鞄と段ボール箱があってそこだけ現実的で、小道具感がすごいなというのは少しあって…何故段ボール箱?そして箱の中に何故、食器しかない?引っ越しの荷物を詰めるとき、そんな食器ばっかり残すかな……。と、見ていてちょっと思いました。小道具ですから、と割り切ってしまえば別に良かったですが。何故食器か、というのは包むための新聞紙がアイテムとして必要だった、というのが後々分かってきて、そこはなるほどなー!と思いました。日常的な動作の中に非日常の情報が紛れ込むとしたら確かに新聞だな、と。「食器を包むための紙」って探しても意外と見つからなそう。新聞って柔らかいし、普通の家庭には日常的にあるものだし、最適。生活の知恵。

クマコと黒猫の対話。クマコに猫の言葉は聞こえていないけど不思議と会話みたいになっている、というのはすぐ分かりました。そして実際は猫しかいないのに、クマコの思い出が重なって黒猫が他の人物を演じることになる。この劇の構成自体がクマコの「独白」になっているというのが、手法として好きでした。
その中で、三葉氏は今度は「アサコ」になる。アサコは……アサコ自体がもう、猫っぽい。動物的なんだなあ。うまく言えないけどこういう人、いるよなって思いながら見ていました。アサコの設定について劇中で多くは語られませんが、伝わってくる「生きづらいだろうなあ」感。社会不適合者に世間は甘くないでしょう。胸がヒリヒリします。こんなに可愛いけど。こんなに可愛いけどアサコは猫じゃないし、人間は猫のようには、生きられない。
アサコの台詞はほとんどありませんがここでも三葉氏は「目」で雄弁に演じている。もう…なんていうか…愛らしい。もうそれしか言えねえ。後半の怯える演技、絞り出した数少ないアサコとしての台詞、それもとても良かったです。三葉氏の声は、忘れられない色をしている。
関係ないですが淵脇氏のくしゃみの演技が上手すぎて本当にくしゃみしてんのかと思いました。

クマコの母親。クマコ。アサコ。黒猫。
この関係性の描き方があまりに上手く、感嘆で何も言えません。
支配と庇護。無償の愛ほど怖いものはないのかもしれません。身が粉になっても「〇〇してあげている」と相手にマウントを取ることで精神のバランスを保っている人は、相手が勝手に手から離れようとすると「あんなに〇〇してあげたのに」と犠牲にしてきたものが積み重なって爆発する。本当に依存しているのは、優越感が得られる相手がいなくなって困るのは、「してあげている」方でした。
何の対価もなしに人間が人間に尽くす(養う)のは無理なんだと思います。尽くしている方は無意識に対価を求めてマウントを取ってしまうし、それって尽くされている方も分かるでしょう。あ、この人、私のこと下に見てるんだな。って。正常な人間関係ではいられない。親と子だって無理なのに、他人と他人ではどうやっても。男と女ならまた違ったかも。それから、歳の差があれば。あるいは人間と動物ならいいのかも。人間には無意識に対価を求めてしまうけど、非人間には求めない。かな?動物の方も「見下されている」とは思わない、思っていても分からないでしょう。アサコが猫ならよかったけど猫じゃない場合、「人間扱いされてない」ということなので。アサコがそれを感じ取って不服としてしまったらやはり、正常ではいられないですよね。
クマコは母親にされたことをそっくりそのままアサコにして、アサコもまたそのまま黒猫へ。一直線の関係性が、見事でした。

三葉氏の「母」の演技が素晴らしすぎました。やはり、目が良い。「あなたを心配してますよ~」という慈愛に溢れた目が、善意100%すぎて、痛い。頭の良い、優秀な娘に「ばかなこと言っちゃった」と言って謝る…こういう母親いるいるいる~!!
公演前、ハリガヤ氏は「三葉のことは俺が一番上手く使える」と豪語していましたね。何言ってんだコイツと思っていましたが、この瞬間それがよく分かりました。こんな演技ができると思っていなかったので(失礼か?)ひっくり返りそうになりました。
三葉氏も大学の同期です。とは言っても一年生のときしか碌に関わっていませんが、「可愛すぎるが故に悪目立ちしてしまう」というイメージがありました。顔も声も可愛いし目が大きいので、何をやっても人よりちょっと大げさな子供向けになってしまって、使いどころの難しい役者という気がしていました。
だけどこの劇の中の三葉氏の使い方は。三葉氏の良いところを殺さず最大限に使いつつ、相手の淵脇氏も魅力も殺さないという絶妙さでありました。思うに、「黒猫が他の登場人物を演じている」という仕組みが良かった。黒猫という非人間、道化役なら多少大袈裟なくらいがぴったり合います。ものをあまり喋らない「アサコ」という役柄も、持ち味の「目」と「愛らしさ」を最大限に生かしていた。そしてこの「母」。「黒猫が演じる母」だからいいのでしょう。まあメイクなどでどうにかなるのかもしれませんが、そのまま「母」という役だったら違和感があったと思います。黒猫が演じているから、良い。素晴らしすぎました。
クマコの母親が言った「そんなの絶対間違っている」という言葉は、正しかったんだと思います。だけどアサコを救いたいクマコは「間違ってる」という絶対否定だけ言われても、分からないですよね。分かりたくないし。対話が足りなかった…。
誰も彼も、母親もクマコも、「善意」しかないのに。むしろその善意こそが厄介者です。「自分が正義だ」と思い込めた人間は強いですから。良い方向にも、悪い方向にも。

見ているときはそんなに感じませんでしたが、北川さんの訪問を喜ぶクマコの台詞はどうも歪んでいますね。やっぱり、寂しかった、んでしょうね。そこまでいってしまっても、誰かに会いたかった。
しかし、「国家公務員」が警察官だったのは分かりますが、一体どこで知り合ったんだろう?若干の疑問。

「クロヤ!」と何度も叫ぶアサコの、悲痛な声。あの声が耳にこびりついて忘れられません。たぶんこの劇のことを思い出すとき同時に私は、あの声を思い出すのでしょう。繰り返し。
「このたびは誠に申し訳ありませんでした!!」で流れる音楽、何の曲かは分かりませんが、ガーンと流れて暗転になる流れは、一般的な手法かもしれませんが頭を殴られているみたいで好きでした。

小道具としての「あやとり」。見方が歪んでいるのかもしれませんが、あの真っ赤な糸が様々なものを暗喩しているような気がしてなりませんでした。
例えばクマコとアサコの関係。運命の赤い糸、なんて言うと美しいけど、運命の糸は何故赤いんだろう。それってたぶん、血の色なんだろうな。切ろうと思って切れるものではなく、むしろがんじがらめに…。
性的関係も示している?と、深読みしました。クマコとアサコ、「友達」とは一言も言っていない。その関係性は果たして、友達なのか?危うさを感じて、例えばそれに近しい事実があっても何ら不思議はないなと思いました。特に、「違う、私はもっと強くアサコを抱き締めた」という台詞と、抱き締め方。すごく気持ちが悪かった。褒めてます。すごく、気持ちの悪い触り方だった。あぁ正常な関係でないなと感じました。
血の糸と言うならクマコとクマコの母親の関係も、ひとつ。血縁関係は、切りたくても切れない。
そして様々なものを示すあやとりが、凶器に。ぞっとしました。

「穏やかな暮らし」というタイトル。まあ穏やかな話ではないんだろうなと予想していました。アサコを殺して訪れる、理不尽な穏やかさ。幸せ。あぁ…ここから先は上手く言葉にできません。言葉にしてしまったら台無しになる気がする。タイトルが秀逸であること、そしてデザイナーAOさんの手書きの文字がドンピシャリ合っていることに鳥肌が立ちました。
アサコの死体を何故バラバラにして隠蔽を図ったのか、というところは描写されていませんが、たぶん事務的に行ったのかなと想像します。臭いが酷いし…とか、そういう理由で。捕まりたくない意思が見えて、追い詰められている犯人には違いないのに気持ちはずっと穏やかだったんでしょう。自分ではどうしようもないこと、説明のつかないこと。感じてしまうそれは不快、だとか怒り、だとか負の感情もあるけれど、自分ではどうしようもない制御できない「幸せ」という正の感情もあるのだなと知りました。
穏やかな話ではないのに、ハッピーなエンドでもないのに、感情がそこに落ちてくるので読後感…じゃなくって、なんだろう。観た後の視界が光に溢れていました。丸まって眠るクマコの部屋に降り注ぐ、朝の穏やかな日差しが目蓋の裏にずっとある。良い劇を見た、と、そう思いました。

始まり方は、何気なかった。わけが分からないまま語り始めるから言葉はあまり耳に入ってきていなかった。だけど最後の台詞を聞いたとき、「あ!最初の」と思いました。たぶんそれって淵脇氏の妙技なのでしょう。二人芝居。二人の声が、耳に残って離れません。

長くなってしまいましたが、最後に。
私が観たのは恐らく最も条件の悪い公演でした。叶うならもっと条件の良い日にもう一度、見に行きたかった。最初から最後までバカデカイいびきを非演出のBGMとして聴かされながらの観劇でしたから。私があの日もしも七輪を所有していたらノールックでぶちまけていたところですが。
そんな劣悪な環境の中でも色褪せることのない、素晴らしい舞台でした、ということを記しておきます。

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