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10.首筋の花/100.蔦の絡まる

病名はない。原因も全く不明。治る見込みは、無いに等しい。
彼女は苦しげに首筋を逸らす。きつく閉じられた目蓋。その喉元に、花が咲いている。
大きく反り返った花弁に、細かな斑点が夥しく散っている。橙。赤。白。色は様々だが全てユリである。強い香りが病室に漂う。
初めは一輪だった。だんだんに増えていった。見た目こそ美しいが、咲き誇るユリは気管を圧迫し、呼吸を奪う。彼女の指が掻きむしるように喉へと伸びるが、実際に掻きむしってはいけない。花は彼女と完全に一体化しているので、花弁が傷付けば彼女にも痛みが奔る。ましてや喉だ、致命傷になりかねない。やわな花弁は臓器が露出しているのと同じことらしい。うかつに触れることもままならない。そうでなくとも、花びらの中心から伸びるおしべに触ると厄介だ。花粉がつく。べたべたとしつこい花粉は拭おうとしても取れず、どんどん広がっていく。彼女の体にそれがつくとすぐに芽吹き、またユリの花を咲き誇らせてしまうのだ。首ほどの大きさではないにしろ、確かにユリだ。現に彼女の掌や指先などあちこちにすでにユリの花が転移してしまっている。
苦しいのだろう、彼女は上向いたままつうと涙を零した。ねえ私、…のかしら。その言葉を何度飲み込んだことだろうか。そのうちに声を出すことも出来なくなっていた。僕はせめて彼女の手を握り、大丈夫と繰り返す。ユリの花粉は、彼女の体に付着したときだけ受粉するので、他人が触れてもべたつくだけだ、彼女にしかその苦しみは分からない。何が分かるものか、と彼女も僕にそう思っていたに違いない。声が出ないだけで。その通りだ僕には分からない。無力だ。
匙を投げた医者が最後にやけくそになって提案した治療法がこうだった。「花を枯らせてみてはどうか」、というもの。どうなることかは誰にも予想がつかない。そもそも枯れるものなのか。枯れたら彼女も命を落とすのではないか。しかし、やってみると彼女は頷いた。
白い病室のカーテンを閉め切る。電気を落とし、光を遮る。水を飲むことも極端に減らした。必要最低限、生きていられるだけの水分を摂る。彼女にとっては辛いことだろうが、しかしたったそれだけのことで効果は出たのだ。白かったユリの花弁の先が茶色くしおれ、首をもたげてきた。はらり、とかさかさになった花びらがベッドの上に落ちる。するとどうだろう。呼吸が楽になったと身振りで訴えるのだ。
「このまま全ての花が枯れれば、あるいは、」
医者の言葉に手を叩いて喜んだのは初めてのことだった。言葉通り、青白かった彼女の頬に赤みがさし、痩せた太股も元のふっくらした形に戻って来た。
僕は少し、安心した。安心をしたら、現実を見なくってはいけなくなった。彼女の医療費を稼がなくってはならない。快方に向かっているとはいえ、まだまだ入院が必要なのだから。僕はおろそかにしていた仕事に向き直り、懸命に働き始めた。彼女を想ってのことだったけれど、結果、見舞いに訪れることも少なくなっていった。

あるとき、ふと、仕事に区切りがつき、僕は見舞いに行くことを思い出した。考えてみれば随分、行ってないかもしれない。けれど病院からなんの連絡もないのだから、病状が悪化したとかそういうことはきっとないのだろう。僕は彼女の好きなフルーツを買って行った。花に侵されている彼女に花を買って行くことはもちろんしない。メロン。リンゴ。バナナ。食べることは出来ないが、ユリ以外の香りを嗅げることが嬉しいらしい。瑞々しい果物の匂いだけを吸い込んで、彼女はいつも満足そうに微笑んでいた。
喜んでくれるだろうと思っていた。自然、笑みがこぼれ、足取りも軽くなる。僕は彼女の名のプレートが入った部屋のドアを開ける。彼女の名前を、呼びながら。
愕然とした。抱えていた果物籠を落としてしまう。一体何処のジャングルに迷い込んだのか、と思わせるくらい、部屋いっぱいに、蔦がはびこっている。天井。壁。床。葉を茂らせながら、絡まる蔦はざわざわと今まさに成長しているかのように蠢く。窓も完全に覆ってしまっているので室内はほの暗い。むせ返る、緑の匂い。その中にあの強烈なユリの香りを嗅いで、この蔦の何処かに彼女がいることが分かった。けれど一体、何処にいるのか分からない。夥しい蔦に覆われベッドは最早見えなくなってしまっている。が、中心に、こんがらがった蔦の塊がうずくまっているように見える。僕は恐る恐る足を踏み出した。足の踏み場もないので時折蔦を用心深く、踏みつけながら。
「---?」
そっと呼ぶ。すると、塊が動いた。がばりと身を起こした。蔦の隙間に光る、見覚えのある瞳。しゅるしゅると蔦が意思を持って蠢き、僕の首へと伸びてくる。
殺される!
僕は咄嗟にそう思って、ばしんと蔦を弾き返した。
静寂が、満ちる。
蔦の向こうで彼女は震えていた。涙を流していた。
何事か彼女が言う。唇が動く。しかしぱくぱくと空気を吐き出すだけで、彼女の声は聞こえない。喉元のユリの花はいつの間にか何十倍にも膨れ上がり、胸の辺りまで彼女の体を侵していた。
不意に、部屋中の蔦が蕾を芽吹き、一斉に花が咲く。全て白いユリの花。かと思うと、蔦ごと一瞬で溶けるように枯れた。それが最後だった。それが彼女の最後の言葉だった。
白い病室に、花びらに塗れた彼女の遺体だけが残る。

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5.なんて素敵な人/8.きらきら

ぼくはポケットの中にきらきらを飼っている。 薄桃色や黄緑、橙色や水色、色んな色のきらきらだ。ぼくが何にもしないときらきらは上着のポケットの中でちゃあんと大人しくしてるし、手を差し入れれば喜んで零れ落ちてくる。 光って消えてしまっても、いつの間にかポケットの中にまた戻ってくるからいなくなるってことはない。ぼくはきらきらのことが好きだった。鳴くことはないし、餌を食べることだってない、柔らかい尻尾だってないけど、好きだった。きらきらもきっとぼくのことが好きだった。ポケットに手を突っ込んでそっと掻き回すと、嬉しそうにシャラシャラ掌に纏わりついてきた。
だけど人はきらきらのことを理解してくれない。「え? なに?」ってきょとんとして、きらきらのことが見えない人もいる。見えたって、「金平糖?」だとか、「手がべたべたしないの?」なんて、見当違いなことを聞いてくる。だからぼくは積極的にきらきらのことを人に見せるのをやめたんだ。その代わり、そっと零す。
例えば駅で。交差点で。雑踏の中、人知れずポケットに手を入れ、少しずつ、少しずつきらきらを落としていく。白ピンク水色黄緑オレンジ色、ぼくの歩いた後に光の線が出来て、少しすると消える。ぼくは試していた。きらきらの見える人を探していた。人混みの中で、はっとぼくのことを振り返る人を探していた。
都会の人々は忙しくって、誰もぼくを振り返らない。だけどそんなある日、とうとう、見つけたんだ。
彼女ははっと踵の高い靴で立ち尽くしていた。道行く人が邪魔そうに彼女の肩にぶつかっていく。それでも、目を逸らすことはない。ぼくのポケットをじっと見ている。彼女のハイヒールは赤く、スカートだって短くって、胸をさらけ出すような下品な服を身に纏っている。化粧だって濃いし、染髪を繰り返した茶色い髪はちぢれている。でもぼくには分かった。彼女はこう言ったんだ。
「なんて素敵な人…!」
彼女の瞳の中にきらきらが宿っている。ぼくには分かったんだ。どんな格好をしてたって、コンタクトをしてたってファンデーションを塗りたくってたって彼女の素顔はほんとうはとてもうつくしい人なんだってことが。ぼくは両手にポケットいっぱいのきらきらを差し出しながら言う。ぼくと一緒に、きらきらを飼いませんか。

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88.手を繋ごう/42.花びらの教会

リンゴーン、と錆び付いた音が響く。間があってもう一度、リンゴーン。 年老いた神父の鳴らす鐘が辺りに響き渡る。少年と少女は揃って顔を上げた。風が吹いて、花弁が一斉に揺れる。
一面に白い花の咲き誇る丘に、その教会は立っている。背後には海を臨む崖。美しいが便が悪いので訪れる人はあまり多くない。老神父が一人で管理している。
子供たちは捨て子だった。神父は二人を引き取り、平等に育てた。そのことだけでも彼は立派な人間だということが分かる。少年の方は普通だが、少女の身体的特徴を見た大抵の人は、石を投げるのだから。
夜の闇のように美しい髪の間に、何かが覗いている。突起。いや、角だ。まだ小さいが、羊のように曲がりくねった二本の角が生えている。背には膜の張った、コウモリに似た黒い翼。やはりまだごく小さなものなので飛べはしないが、年々着実に大きくなってきていた。瞳の色は赤く、一目で異形と分かる。
少女は悪魔だった。
けれど神父は、幼い頃から教育すれば人の言うような悪魔にはならないだろうと考えていた。それに彼女は見た目こそあからさまに「そう」であったけど、それ以外は力が強いだとか超能力があるだとかそういうことも一切なく、全く普通の子供と同じだったのだから。
少女はころころとよく笑う女の子に育っていった。
少年は生まれたときから一緒の彼女のことを、差別する気持ちは全くなかった。少女の角や翼も、さして気にしていない様子だった。少年は手先が器用で、教会の周りにあり余るほど咲き誇る花を摘んではよく少女に花冠をプレゼントした。たぶん、少女のことが、好きだったんだろう。柔らかい白花で作った冠は、少女の黒い髪によく映えた。
ある日花畑の真ん中で少女は悪戯っぽく瞳を輝かせながら、少年に言う。
「ねえ、違う花の冠が欲しいわ」
そうは言っても、ここにはこの白い花しか咲いていない。遠くに行けばあるだろうが、丘から出ることは神父から禁じられていた。出る必要なんてないのよ。少女は囁く。強い潮風が、二人の髪を巻き上げていく。
「教会の裏に崖があるでしょう。あの崖に、見たこともないきれいな花が咲いてるの。」
少年は、少女がそう言うのならすぐにでも取って来てあげたかった。それにその花はこの白い花よりも花弁の数が多く、葉の形も違い、しかも瑞々しい赤色であるという。それを聞いて少年の心は躍ったけれど、でも、と躊躇う。何しろ断崖絶壁だ。下は荒波が押し寄せる尖った岩。とてもそんなところ、行けやしない。人間ならば。
「大丈夫よ、」
私が連れてってあげると彼女は言う。神父には隠していたが背中の羽根はもう短い距離なら飛べるのだという。少年の体を抱えて飛ぶから、と少女は提案する。それならば自分で取ってくればいいのではないか、とちらりと思わないではなかったけれど、少年は舞い上がっていた。「一緒に、行こう?」なんてそっと呟いて、手を繋がれてしまっては。少年は少女の手をぎゅっと握り返して立ち上がる。
「いいよ、」
悪魔の少女は赤い瞳を、三日月のように細めて笑った。

「うれしいわ」

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1.花束とピストル/99.ロウソクを灯して

ボ、
暗闇に淡い光が灯った。 炎はジジジと芯を焦がして微かに唸る。一本の白いロウソク。簡易な手持ちの燭台に立てられ、早くも蝋を滴らせている。ゆらり。ゆらり。熱を発しながら炎が不安定に揺れる。灯りをつけた人物は、階段を上がっているようだった。革靴を履いているはずなのに何故か、足音がしない。
男は扉を開けた。荘厳な扉のようだが暗くてよく見えない。それに、蜘蛛の巣も張っているようだった。
室内もやはり明かりは灯っていない。しかし、気配はある。目を凝らすと、何かが闇の中で蠢いている。おぞましい気配。
「誰だ?」
男が灯火で照らし出すと、その人物は眩しそうに手を翳した。
かなりの巨体である。でっぷり太って、腹の肉が撓んでいる。身動きすら億劫そうだ。何を如何したらそんなに肥えるのか。シルクの上着を身につけ、豪奢な宝石を体に巻き付けて着飾っているが、その胸元には何かの食べカスが大量にこびりついている。巨体の、屋敷の主人は光を嫌がって首を振った。顎が何重にも弛み、顔中に汚らしい出来物がある。鼻だけがピンと鋭く上向いているので痩せていて若い頃ならばまだ見れた顔だったのかもしれないが、今は顔を背ける者がほとんどだろう。
主の衣服は乱れている。見るに堪えない肉が溢れ出している。その肉に下敷きになるようにして、ベッドに女が横たわっていた。髪の毛で表情は見えない。縄できつく両手をベッドに縛り付けられている。裸だ。
「どこから入った? 使用人はどうした?」
鼻息を荒くした主---いや、鼻息は元から荒いのかもしれない---に尋ねられ、男は目を細めて微笑んだ。
「いやだなあ、あなたがみんな殺してしまったんでしょう」
そうか。そうだったなと主は呟く。
「最後に残ってたメイド、あれは惜しいことをした。もう少し残しておけばよかった。声がかわいらしかったのだ、そこが気に入ってた。でも言うことを聞かないものだからつい、こう、…絞めてしまった。細い首だったので簡単に折れてしまったよ。」
だけどその今際の叫び声もやはりかわいらしかった---と、主は口の端から涎を垂らした。男の表情は微笑を湛えたまま動かない。
「じゃあなんだ? お前が新しい使用人か? 何の用だ?」
「ええまあ、そんなところです」
お祝いにやってまいりました。
男はそう言ってばさりと花束を主人に向かって差し出して見せた。中心に咲く白い花が大きく目立ち、あとは黄色や橙の色した細かな花と緑の葉。ユリの独特な匂いが室内を満たす。
主人は首を捻った。肩と顎が一体化してどこが首だか最早分からないが、とにかくそんな動作をした。
「今日は何の日だ……? 誕生日だったかな……? 私の……? そんな気もしてきたな…」
しかしそんなことはどうでもいいことだったらしい。主はベッドから降りることなく男に命ずる。
「花束など要らん、そんなことより食事を持って来い、どうせ祝うならとびきり豪華なやつだ、子牛の丸焼きソテーがいいな」
男は動かない。
「そんなこと言わずに祝わせてくださいよ」
不自然なほど、男の表情は動かない。笑みが仮面のように顔面に貼り付いている。
「あなたの命日をね」
バンッ
突然発射音が耳を劈いた。花束の真ん中から硝煙が漂っている。
「?」
主は何が起きたか理解出来ていないようだった。その出っ張った腹から、どくどくと赤いものが滴っている。
バンッ バンッ
構わず男は花束の奥に仕込んだピストルの引き金を引く。一発は心臓を。一発は開いた口の中を貫き、頭蓋骨を砕いた。どぴゅーと血を吹き上がらせて巨体は後ろ向きに音を立てて倒れた。ロウソクの明かりの外でその頭はビクンビクンとまだ痙攣しており、体の大きさに見合った多量の血が床を汚していく。生温かいそれの上に、男は花束を落とした。花びらが舞い落ち、白いユリがさっと染まる。
「お前に贈る花なんてねえよ、ブタ野郎」
男はそう呟いた。
それから男は、ベッドへと足を向ける。縛りつけられている裸の女性。彼女に手を伸ばそうとしたのだが---。
「………」
男は不意に踵を返した。扉の前まで戻り、落ちた花を拾い上げる。赤いユリだった。それを一輪、女性の胸元に乗せる。
男は黙って十字を切った。

再びロウソクの明かりが、階段を降りていく。生きる者のない屋敷を、男は後にする。やはり、足音も立てずに。

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3.夜空とコーラ/51.海のピアノ

海岸線に、ピアノが一台。 波打つ青い海のピアノ。見るたび青と白の混ざり合う色合いが変わっていき、表面はきらきらを貼り付けたように輝いている。足の部分に貝殻やヒトデの装飾。
演奏用の椅子に、一人の少女が腰かけている。ペダルに足もつかないような少女。真剣な表情で白と黒の鍵盤を爪弾いている。ずっとそうして練習してきたのだ。もう日も暮れてしまった。頼りない星明かりの下で少女は小さなふくふくした手でぎこちなく、けれど真剣に鍵盤を叩く。
ド、レ…♪
「日なたのあぶくの音だ」
少女の横から甲高い声が上がった。そこには半ズボンの少年がいる。行儀悪くピアノの淵に腰を下ろして、コーラを飲んでいる。
少女は一瞬少年の方を睨んだ。けれど、思い直してすぐに鍵盤に向き直る。
ミファソ、…ドシ♪
「それは寝起きイルカのあくび」
ソラソラミドレ♪
「それは、七色珊瑚の歌声」
ラララ…ミファー♪
「デートに遅れそうな人魚が落としたイヤリングの音だな」
少女はとうとう少年に抗議の声を上げた。
「うるさい」
少年は憮然とした表情でコーラの瓶に口をつける。ようやく静かになったので、少女はウォームアップをやめて一度軽く肩を回した。お尻の位置を直す。ふ、と触れる鍵盤は冷たい。息を吸い込むような間があって、それから、少女の白い手が舞い始める。
ミレミレミシレドラ…
バガテル「エリーゼのために」 WoO.59
あまりにも有名な旋律が海岸の景色に響き渡る。それほど難易度の高い曲ではないが、少女はところどころ指を転ばせ、音を踏み外した。盛り上がりが上手く弾けないのでテンポがゆっくりになってしまい、いまいち迫力がない。よろよろと、なんとか少女は演奏をし終わったけれど、その表情は泣きそうだった。いつまでも手を下げようとせず、じっと俯いたままだ。
「へたくそだなぁ」
少年はのんびり、正直に呟く。少女はびくりと肩を震わせた。少年はそんな少女の顔を、無遠慮に覗き込む。
「ねえ、楽しい?」
少女は目に涙をいっぱい溜めながら、首を振った。だけど、練習しなくってはいけない。一月後に『花の深海広場ホール』で、発表会があるのだ。上手く出来るまで帰ってはいけないと、先生が言ったのだ。
少年はしばらく黙っていた。それから、スッと立ち上がる。少女は不思議そうな目で見上げている。
「あっ!」
少女は止めようと思った、だけどもう遅かった。少年が逆さにした瓶からコーラが流れ落ちる。ピアノの上に、容赦なく。その俗っぽい炭酸飲料はぱちぱちと白い泡を弾き出しながら鍵盤の上を流れ、隙間まで侵し、足元へ滴り落ちていく。白い鍵盤にコーラ色の染みが出来た。もうまともに音が出ないかもしれない。少女は叫ぼうとした。少年に文句を言おうとした。けれど少年が放ったコーラの空き瓶がカァンと大きな音を立てて転がっていったので、咄嗟に黙ってしまう。少年は不機嫌そうに顔を近付けて、言う。
「そんなつまんないものより、ぼくの方を見ろよ」
少女の胸がどきんと波打つ。ゆっくり、恐る恐る、胸に手を当てながら、少女は少年を振り向いた。
満天の夜空と少年が、少女のことを見下ろしていた。少女は息を飲んで、瞬きをする。黒い宇宙に敷き詰められた小さな星。余すところなく、全天を覆っている。白くけぶった光の帯がその真ん中を横切っていて、あれが天の川かと思った。ちらちら。風に吹かれて星たちが瞬く。どこを見ていいか分からない、どこを見ても銀河だ、知っている星座の名前が幾つも頭の中に浮かんだ。
ね、きれいだろ。満足そうに少年が笑う。少女はまた泣いてしまいそうになりながら、うんと頷いた。

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