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3.夜空とコーラ/51.海のピアノ

海岸線に、ピアノが一台。 波打つ青い海のピアノ。見るたび青と白の混ざり合う色合いが変わっていき、表面はきらきらを貼り付けたように輝いている。足の部分に貝殻やヒトデの装飾。
演奏用の椅子に、一人の少女が腰かけている。ペダルに足もつかないような少女。真剣な表情で白と黒の鍵盤を爪弾いている。ずっとそうして練習してきたのだ。もう日も暮れてしまった。頼りない星明かりの下で少女は小さなふくふくした手でぎこちなく、けれど真剣に鍵盤を叩く。
ド、レ…♪
「日なたのあぶくの音だ」
少女の横から甲高い声が上がった。そこには半ズボンの少年がいる。行儀悪くピアノの淵に腰を下ろして、コーラを飲んでいる。
少女は一瞬少年の方を睨んだ。けれど、思い直してすぐに鍵盤に向き直る。
ミファソ、…ドシ♪
「それは寝起きイルカのあくび」
ソラソラミドレ♪
「それは、七色珊瑚の歌声」
ラララ…ミファー♪
「デートに遅れそうな人魚が落としたイヤリングの音だな」
少女はとうとう少年に抗議の声を上げた。
「うるさい」
少年は憮然とした表情でコーラの瓶に口をつける。ようやく静かになったので、少女はウォームアップをやめて一度軽く肩を回した。お尻の位置を直す。ふ、と触れる鍵盤は冷たい。息を吸い込むような間があって、それから、少女の白い手が舞い始める。
ミレミレミシレドラ…
バガテル「エリーゼのために」 WoO.59
あまりにも有名な旋律が海岸の景色に響き渡る。それほど難易度の高い曲ではないが、少女はところどころ指を転ばせ、音を踏み外した。盛り上がりが上手く弾けないのでテンポがゆっくりになってしまい、いまいち迫力がない。よろよろと、なんとか少女は演奏をし終わったけれど、その表情は泣きそうだった。いつまでも手を下げようとせず、じっと俯いたままだ。
「へたくそだなぁ」
少年はのんびり、正直に呟く。少女はびくりと肩を震わせた。少年はそんな少女の顔を、無遠慮に覗き込む。
「ねえ、楽しい?」
少女は目に涙をいっぱい溜めながら、首を振った。だけど、練習しなくってはいけない。一月後に『花の深海広場ホール』で、発表会があるのだ。上手く出来るまで帰ってはいけないと、先生が言ったのだ。
少年はしばらく黙っていた。それから、スッと立ち上がる。少女は不思議そうな目で見上げている。
「あっ!」
少女は止めようと思った、だけどもう遅かった。少年が逆さにした瓶からコーラが流れ落ちる。ピアノの上に、容赦なく。その俗っぽい炭酸飲料はぱちぱちと白い泡を弾き出しながら鍵盤の上を流れ、隙間まで侵し、足元へ滴り落ちていく。白い鍵盤にコーラ色の染みが出来た。もうまともに音が出ないかもしれない。少女は叫ぼうとした。少年に文句を言おうとした。けれど少年が放ったコーラの空き瓶がカァンと大きな音を立てて転がっていったので、咄嗟に黙ってしまう。少年は不機嫌そうに顔を近付けて、言う。
「そんなつまんないものより、ぼくの方を見ろよ」
少女の胸がどきんと波打つ。ゆっくり、恐る恐る、胸に手を当てながら、少女は少年を振り向いた。
満天の夜空と少年が、少女のことを見下ろしていた。少女は息を飲んで、瞬きをする。黒い宇宙に敷き詰められた小さな星。余すところなく、全天を覆っている。白くけぶった光の帯がその真ん中を横切っていて、あれが天の川かと思った。ちらちら。風に吹かれて星たちが瞬く。どこを見ていいか分からない、どこを見ても銀河だ、知っている星座の名前が幾つも頭の中に浮かんだ。
ね、きれいだろ。満足そうに少年が笑う。少女はまた泣いてしまいそうになりながら、うんと頷いた。

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