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13.水曜日の天使/72.羽根のある恋人

「水曜日の天使なのよ!」
息巻いている彼女には悪いが、意味が分からなくて僕は首を捻る。もどかしげに彼女は地団駄を踏みながら、「水曜日の天使なのよ~っ」と繰り返すけれど、やはり分からない。興奮すると彼女は一から始めなければいけないところをいきなり十から始めてしまう癖があった。鼻息を荒くする彼女を、どうどう、と落ち着かせて、順番に戻っていく。今にも飛び上がってしまいそうな彼女の肩を抑え、根気よく繰り返し、ようやく最初に辿り着いた。
医者の話らしい。歯医者の話だ。彼女はいま虫歯の治療をしていて、一週間ごとに歯医者へ通っているのだが、その日にちがいつも水曜日らしい。で、その歯科医が、格好良い、と。そういうことらしい。
「もう、声がすっごく良くってね、ハスキーでね、それでね、とても優しくって、ちょっと痛い顔するとすぐ『大丈夫ですか?』って言ってくれるの!」
キャー、と彼女は黄色い声を上げながら首を振る。「お大事にどうぞ」と最後に見送ってくれるときも他の人と違うらしい。その素敵な声で、しかも、わざわざマスクを取って、微笑んでくれるらしい。あまりの熱狂ぶりに僕は呆れて、「まさか、好きなの?」と尋ねてみる。
「まさか!」
彼女はそれには即座に否定してみせる。違うのか。それでそんななのか。よく分からない。と思うけれど、正直、心底安心はした。
「だってオジサン、ううん、オジイサンだもの」
でもその渋みと優しさが、なんとも言えず良いらしい。たぶん実際会ってみても、僕には理解できないだろう。
「オジイサンなのに天使なの?」
どっちかって言ったら神さまじゃないの、と言ってみたら、烈火の如く怒られた。危うく顔を引っ掻かれるところだった。つくづく彼女のスイッチは分からない。
分かってない分かってないと肩をすくめながら、彼女が言うには、キリスト教では曜日ごとに守護天使がいるものらしく、水曜日の守護天使はラファエルというらしい。ラファエルは傷を治す、癒しを司る天使で、つまり医者という職業で水曜日に会える彼にものすごくピッタリじゃないか、と。ようやく僕は合点がいった。ラファエルとオジイサンは頭の中で繋がらないけれど、理屈は分かった。僕が、ああーと理解した声を上げると彼女は嬉しそうに目を輝かせ、途端に僕の腕を引いた。強く引くものだから、僕は思い切り前へつんのめる。
「じゃ、会いに行こう!」
ええ、と喉からひっくり返った声が出た。何故、どうしてそうなった。
「だって今日水曜日じゃないよ?」
「水曜日じゃなくても天使なの!」
『彼女理論』にはやはり、到底ついていけない。僕はため息をついて抵抗を諦めた。歯医者か、会いに行くってそれ、中まで入らなきゃいけないんじゃないかな。もう何年も行ってないから虫歯がありそうな気がする、嫌だな。でもこの機会に、天使に治してもらうってのもいいかもしれないな。
彼女のウエスタンブーツが石畳の階段を飛ぶように上がっていく。栗色の長い髪がサラサラと日の光に輝いて、彼女は僕を振り向くと意味もない場所で跳躍した。元気だ、本当に、足腰が強いんだろう。何か力が有り余ってでもいるのか。笑顔で飛び跳ねる彼女の背に、白い羽根が見えるような気がした。オジイサンより君の方がよっぽど、僕にとっては天使に見えるよ。なんて、そんなこと、恥ずかしくて口には出せないけどさ。

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