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38.行かないで/88.手を繋ごう

「うわーすごい人だなあ」
おれはそんな感想を漏らす程度だったけど、彼女にとっては初めて見る、衝撃的な光景だったらしい。びしっ、と音が聞こえそうな勢いで、固まっていた。
白塗りに朱で目鼻を描いた面。象徴しているのは狐か猿か。面をつけ、赤、黄、黒、鮮やかな色の上着を身に纏った者たちで、大通りが溢れている。一見して異形の集まりのように見えるが、そうではない。中身はみんな人だ、それに上着もよく見れば上から一枚羽織っているだけで、その下は普通の格好をしている。面の下ではくすくすとお喋りをしている。小銭を握り締めて駆けていく子供の面。シャン、シャン。ドン、ドン。鈴や太鼓の鳴る音が、遠くに聴こえる。矢倉でも組んでいるのか、それとも神輿か。耳を澄ますと僅かながら近づいてきているような気がするので、神輿かもしれない。人混みを割って、金色に輝く輿が上下にゆっくり揺れながら音楽を奏で、上では神役が踊り狂うのだ。マツリ、というらしい。街並みは石造りだがこの街、風習はワの国寄りのようだ。黄昏時が近付いて、吊るされた提灯に次々と明かりが灯っていく。街灯と街灯の間に提灯を張り巡らせているのがなんとも奇妙だが、確かに紙を透かしたあの赤い灯火は、街灯では表現出来ないだろう。
今も十分混んでいるが、夜が近付くにつれもっと人が増えてくるだろう。それこそ身動きが取れないくらいに。
「ここ、行くの?」
彼女が囁く。いつものワガママ三昧な気丈さはどこへ行ったのだろう。
「うーん、どうしても買いたいものがあるんだよなあ…」
先日巨大な花クラゲと格闘したおかげで、釣り糸が切れてしまっていた。海洋生物の研究には欠かせない物なので確保しておきたい。海から一番近い街がここなのだ、あとは幾分歩く。それには、岸辺に残してきた相棒の白イルカのことも心配だけれど彼女のことも少し心配だった。肩の上で揺れる金髪はよく見るとしっとり濡れていて、つるりとした白い素足からも水が滴っている。足。それは借り物の姿で。彼女はずっと海の中で暮らしてきたのだ。珊瑚の間を泳ぎ回り、小エビや小魚を食べ、どこまでも続く青い世界で生活してきたのだ。あまり長いこと陸にいるのはよくないのではないかと思ってしまう。現に彼女は、隙あらば靴を脱ぎ捨てて海の中へ飛び込んでしまうのだから。でも今は、雑踏に踏まれそうなので靴、履いた方がいいよ、と言うと、急いで手に持っていた革靴に足を通していた。
「ここで待っててくれる?」
こんなに混んでいるところへ行かせるのも可哀想だと思ってそう声をかける。おれだけがサッと行ってサッと帰ってくればいい。マツリというものの雰囲気を楽しんでみたい気持ちもあるが、みんな羽織の中この薄汚いグリーンのつなぎでうろうろするのも気が引ける。
彼女はスカートの端を握り締めて俯いていた。返事はなかったが、こくん、と頷いた結果の俯きだとおれは解釈して、彼女に背を向けた。
「おっ」
腰がぐきっと変な音を立てた気がする。引っ張られた。後ろに。それも、結構強い力で。腰を抑えながら振り向くと、彼女は唇を噛み締めたまま真っ赤な顔をしていた。ぎゅっ、と、つなぎの袖を、皺が寄るほど強く握りしめている。
ざわざわと人の囁きが耳に返ってくる。どこか異国の言葉のように感じる。提灯に照らされて蠢く異形の群れ。シャン、…シャン。囃しの音はやはりだんだん大きくなってきていた。
おれは彼女に向かって手を差し出した。意味が分からないのか、彼女は不思議そうな顔をする。そう言うのが、照れくさくって、おれは黙って彼女の手を取った。
「一緒に…、」
顔を背けながらもごもごと呟くと、ようやく伝わったらしい。ウン、と小さな返事が、後ろから聞こえてきた。おれは彼女の手を確かめるようにぎゅうっと握り締める。小さいなと思った。少し冷たくて、すべすべしていた。

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